日本の歴史と天皇⑨ 武士の参政

20/01/2020

日本の歴史と天皇⑧』では、天皇と貴族の政治争いを紹介しました。

この時代、貴族は娘を天皇の妻にし、その子供を天皇にすることで権力を持ちました。一方、天皇は自分の幼い子や孫に位を譲り、上皇(じょうこう)となることで権力を保とうとします。

やがて、皇族と貴族の政治劇は内乱となります。しかし、皇族や貴族が直接戦うことはせず、武器を持って戦う役目は「武士」が担いました。

武士の台頭

皇族や貴族たちは、戦いの度に自分が抱えている武士に恩賞を与えて、位を授けました。その結果、貴族と同じ位を持つようになった武士が出てきます。その1人が「平 忠盛(たいらの ただもり)」でした。

平 忠盛(たいらのただもり)

忠盛の息子である清盛(きよもり)は、さらに出世し、ついに武士初の天皇の補佐官「太政大臣(だじょうだいじん)」にまでなります。そして、貴族と同じように娘を77代目の後白河(ごしらかわ)天皇の妻としました。

生まれた男児は、わずか2歳で81代目の安徳(あんとく)天皇となり、祖父である清盛は後見人の立場を得て権力を握ります。これは武士の身分では初めてのことで、清盛の一族は武士でありながら貴族よりも高い地位を手に入れました。

平清盛の隆盛

しかし、皇族や貴族にとってこれは喜ばしいことではありません。清盛に対して軍隊を差し向けますが、清盛は元々武士なので、直接的な戦いでも無敵でした。

送られてきた軍隊を何度も返り討ちにし、首謀者の貴族やその部下の武士を処刑したり流刑にしたりしました。その中でも、当時13歳だった源頼朝(みなもとの よりとも)という武士は、父や兄は戦死したり処刑されたりしましたが、その若さに免じて現在の静岡(しずおか)県伊東(いとう)市へ流罪となります。

平 清盛(たいらのきよもり)の銅像

しかし、その流刑地となった場所で味方をつけて、大人になった時に再び打倒清盛へと立ち上がりました。まもなく清盛は病気で亡くなりますが、頼朝は後白河上皇と結託して清盛の息子たちを攻撃します。

源頼朝の反撃

西暦1183年。頼朝の攻撃を受けた清盛の遺族たちは、ついに京都(きょうと)を捨て、5歳の安徳天皇を連れて西へと逃げました。頼朝と組んで平家(「へいけ」と読む、清盛の一族のこと)を京都から追い出すことに成功した後白河上皇は、改めて3歳の後鳥羽(ごとば)天皇を即位させます。

京都の長講堂(ちょうこうどう)というお寺にある、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の木像

頼朝はさらに平家を追い詰めます。そして西暦1185年、ついに山口(やまぐち)県と福岡(ふくおか)県の間にある海峡、「壇ノ浦(だんのうら)」で平家の一族全員を全滅させます。

壇ノ浦(だんのうら)の戦いを描いた昔の絵巻物
壇ノ浦の古戦場に作られた銅像

こうして政敵がいなくなった後白河上皇は、晩年の人生を京都で謳歌します。そして功労者である源頼朝は後白河上皇の死後、西暦1192年に後鳥羽天皇から、武士たちを統括する「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という地位を貰い、神奈川(かながわ)県の鎌倉(かまくら)に、武士の都を作りました。

この頃から始まる時代を「鎌倉(かまくら)時代」といいます。